雨季になると沈む村がある。
川沿いの低地に建てられた集落で、毎年のように床上浸水を繰り返していた。他に行く場所がない。先祖の墓も、子どもたちの遊び場も、全部この低地の中にある。
ガリョウとの和解の後、僕たち3匹はぎこちなくも一緒に行動するようになっていた。その最初の仕事が、この村の治水だった。クロワは依頼を受けた瞬間、目の色が変わった。「構造的な問題は、構造的に解決できる」。それがクロワの信条だった。
クロワは3日間ほとんど寝なかった。川の流速を計算し、土質を調べ、過去の浸水記録を聞いて回り、設計図を引いては消し、最適解を追い求めた。
完璧な設計図
3日目の朝、クロワが設計図を広げた。完璧だった。過去50年分の降水量データから逆算して、100年に一度の豪雨にも耐えられる構造。すべての変数が計算に組み込まれている。
この排水設計なら、年間降水量が150%になっても対応できる。工期は2ヶ月。必要な資材はこの地域で調達可能。合理的には、これが最適解だ。
やれ。
問題は一つだけだった。最適な排水路を通すには、村の中心にある古い祠を取り壊す必要があった。200年前に先祖が建てた、苔むした小さな祠。治水の設計図には、ただの障害物として赤い×印がつけられていた。
計算では出ない答え
村長は穏やかな老人だった。クロワの設計図を丁寧に見て、何度も頷いて、それからゆっくりと首を横に振った。
「あの祠は、この村の始まりの場所なんです。洪水で何度流されても、村人が手で石を積み直してきた。あれがなくなったら……この村が村である理由がなくなります」
感情は理解する。だが、祠を残せば排水効率が37%低下する。次の雨季で、また同じことが起きる。データは嘘をつかない。
村長は黙って頷いた。「わかっています。それでも」。
その「それでも」が、クロワには理解できなかった。代替ルートを5つ試した。どれも祠を避けると効率が落ちる。最適解は一つしかない。そしてその最適解を、村人たちは望んでいない。
合理的には正解だ。でも……。
クロワが言葉を詰まらせるのを、僕は初めて見た。あのクロワが。「でも」の先を言えずに立ち尽くしていた。
設計図を置いた日
翌朝、僕はクロワに声をかけた。
クロワさん、たまには設計図を置いて、みんなの話を聞いてみませんか。数字に出ない情報が、たぶんあると思うんです。
……話を聞いたところで、水は物理法則に従って流れる。感情では排水量は変わらない。
そうですよね。でも、村の人たちが何を大事にしてるかを知らないと、設計図は使ってもらえないですよ。使われない最適解より、使われる次善策のほうが、たぶん村を救えます。
クロワはペンを置いて、村の集会所に向かった。村人たちの話を3時間聞いた。祠の歴史。洪水のたびに助け合ってきた記憶。祠の石を積み直すのが毎年の行事であり、村の結束を確認する儀式でもあること。データには載らない情報が次々と出てきた。
夜が明ける前から、クロワは新しい設計図を描き始めた。祠を残す。排水効率は最適解の68%。100年に一度の豪雨には耐えられない。でも通常の雨季なら凌げる。祠自体を水の分流点として活用する設計。消しゴムは使わなかった。迷いがなかった。
最適ではない。だが……最善ではあるかもしれない。最適と最善は、同じとは限らないらしい。私はそれを、今日学んだ。
いい顔してるぞ、K。
村長は新しい設計図を見て頷いた。「これなら、みんな納得します」。完璧じゃない。でも村人が自分たちの手で維持できる。祠も、水路も、村の誇りも、全部残る。
ガリョウが静かに立ち上がって、工事の準備を始めた。クロワが設計し、ガリョウが動かし、僕が記録する。三匹がようやく一つのチームとして噛み合い始めた瞬間だった。
クロワが消しゴムを使わなかった日のことを、僕はたぶんずっと覚えている。
その夜、ノビはノートにこう書いた──
村長が新しい設計図を見て頷いたとき、クロワさんの背中がほんの少しだけ軽くなったように見えた。68%でよかったんだと思う。